この間まわって来たコピペ。
電車で女子大生二人組が
「東大用にメイクも服装もめっちゃ清楚にしてきた」
「まあまあの収穫だったね」
「今からは三田祭だから、慶應用にメイク濃くして服一枚脱ご」
とか言って服脱ぎだしてビビった
けど女子大生をサラリーマンにすると…
電車でサラリーマン二人組が
「◯×商事用にネクタイ締めてスーツの上も着てきた」
「大事な案件だからな」
「今からはウェブ系の会社だから、ジーンズとワイシャツにしよう」
とか言ってて納得してしまった
となるから不思議!
この間まわって来たコピペ。
電車で女子大生二人組が
「東大用にメイクも服装もめっちゃ清楚にしてきた」
「まあまあの収穫だったね」
「今からは三田祭だから、慶應用にメイク濃くして服一枚脱ご」
とか言って服脱ぎだしてビビった
けど女子大生をサラリーマンにすると…
電車でサラリーマン二人組が
「◯×商事用にネクタイ締めてスーツの上も着てきた」
「大事な案件だからな」
「今からはウェブ系の会社だから、ジーンズとワイシャツにしよう」
とか言ってて納得してしまった
となるから不思議!
今更だが、「不格好経営」を読んだ。後半の思想や姿勢の部分よりは、前半の昔話の部分のほうが個人的には面白かった。後半の部分も、きっと自分の未熟さ故に見えてないことが多いんじゃないかと思うので、また来年読み返したい。
前半を思い返して一番印象に残っているのは、初期に人たちは皆個性的だけど皆いい人たちなんだろうなー、という点。「優秀な人の共通点」として、「頑固だけど素直」「素直だけど頑固」が上がっているのを見ても、DeNAの初期の人たちはいい人たちなんだろうと思う。(テーブルの反対側に座るときっと怖いんだろうけど)
後半では、「斜に構える、というのは未熟な子供のすることだ。」という文が目にとまった。まあそれは単に僕が斜に構えた人が苦手で、なるべく関わりたくないということが理由なんだけど(未熟と感じるのではなく、単に苦手なのだけど)、自分よりも何倍もすごい人たちが自分と似た立ち方だと知ると正直ちょっとホッとした。
ビジネス書には珍しい、格好つけてない良書だと思う。Fluentd活動などを通してDeNAの人たちとはいくらか交流があったので、元々いい会社だと思っていたのだけど、より一層この会社には頑張ってもらいたいと思った。
そして僕はこの先も、きっと難しいだろうけど、今まで通り、できるかぎり素直にオープンに人と付き合っていきたいと思った。
僕は日本語が下手だ。
会う人には大抵こう断りを入れるようにしているのだが、謙遜でも何でも無い。こう自己防衛しておかないと正直やってられないのだ。
空気が読めないことは当然として、語彙は少ないし、文末のバラエティも乏しい。気さくで繊細な言い回しなども使えない。これらの要素を組み合わせると、文章の構築力が著しく低い人間が出来上がる。自分の頭の中にある考えの「イメージ」を言葉へと変えるのがとにかく苦手なのだ。そして表現力が低いというのは思いのほかつらいのだ。
僕は文章力そのものが低いいわけではない。英語なら人並み以上には出来る自信がある。逆になまじ英語で凝った細かな言い回しが出来るようになったからこそ、日本語を使うのがつらくなってしまったのではないかと思っている。
この過去3年間で本を読み漁り、文章をそれなりに多く書いたため、僕の英語能力は格段に伸びた。同時に日本語能力は緩やかに衰えた。結果、二つの言語の能力差がずいぶん開いてしまった。そこで初めて日本語を使うのには大きな苦痛が伴うようになってしまった。それまでは漠然と自分の日本語の下手さを認識していたのだが、今では自分の日本語の下手さ加減に絶望するようにまでなってしまった。
表現力が無いのいうのは、言い換えれば自分を言い表せないという事だ。人は誰しもが理解されたいものであり、自身の気持ちや信念を打ち明け、共感を得たいものである 。
人と人とのつながりを築く第一歩として、自分の頭の中にあるものを言葉にして伝えなければならない。しかしこの第一歩に問題が生じるのならば、真に他の誰かと分かち合う事など夢のまた夢である。
僕の英語力の上達というのは、言語から独立した「考えの豊かさ」と上達でもある。この上限と日本語での表現力の差は日々開く一方である。
僕はスペイン語も少しできるのだが、このような苦悩はスペイン語では感じない。英語と日本語の能力が比較的近かった時もここまで苦しく感じることは無かった。外国語の能力が母国語に比べてある程度出来るようになって初めてこのフラストレーションを味わうのではないかと思う。
このギャップが大きすぎても小さすぎても苦しみはあまり感じないが、ある一定のレンジの中に収まるようになると、自分の表現力の無さに四苦八苦するようになるのではないか。
最近ではあまりにも自分の日本語が嫌なために、今まで日本語でしか話したことのなかった友人に英語で話す了解を得て、1時間ほど英語で話した。彼とはかれこれ3、4年の付き合いだが、この1時間の会話の方がそれまでの全ての時間よりも僕のことを知ることができたとの事だった。
僕はこの時確信を得たのだ。日本語を使っている限りは人と真に分かち合えることは無いのだと。
きっとこのまま言葉も、今かろうじてある関係も、月日と共に次第に薄れていくのだと思う。そこに哀しみしか残らないのだとしても。
周知のことだけど、メディアの人間の容姿と日常生活でのそれはかけ離れている。それは俳優やモデルなどの人間の容姿がそもそも一般的なものから大きく離れている事もあるけど、それよりも大きいのが化粧、証明、写真加工などの要素だ。「メディア」と言ってもいろいろあるけど、「普通」からは以下の順で逸脱していると思う。
要するに、より深く手を加えることができるほど、そしてアウトプット対して予算が大きいほど、「現実」から離れていく。
恐ろしいのは、これらのメディアにて、昇華された美貌の女性たちを目にするほど、自分のスタンダードが歪曲していくのを実感するからだ。作られた美しさだと頭で分かっていても、綻びの無い美しさを目にする度に、自分の中の「普通」が変わっていくのを感じる。そしてその歪曲した美のスタンダードに合わせて化粧やダイエットを行わなければならない、女性にとってもアンフェアではないかと思う。
人間が相対的にものを感じる生き物だということは、様々な実験に裏付けされている。舌が甘さを感じるメカニズムのように、人の目と脳が美しさを感じるのも相対的な感性なのではないか。もしそうなら、このような作られた美貌に触れるのは、友達付き合にも恋人との関係にも、害しか及ぼさない。
友人にこの話をしたら、「言ってることは分かるけど、メディアを避けるのはほぼ不可能じゃないか」と一蹴された。残念なことにその通りだと思う。僕はここ十年ほどはほとんどテレビを見ていないし、映画も毎年数本しか見ないが、ネットを徘徊するだけでフォトショ加工された女性達のイメージが角膜に飛び込んでくる。実はもうちょっと頻繁に映画は見たいと思っているので、そうすると自然と偶像に晒されることになる。出来ることなら自分をメディアから隔離したい。けどそれはそれで弊害が大きすぎる。
そんな中で、自分の出来ることは何だろう。とりあえず卑猥な広告なんかはAdblock Plusでブロックすればいいだろう。映画やテレビではこんな直接的な手は使えないけど、ダメージを軽くする方法は何かしらあるかもしれない。
なるべく各種メディアを取捨選択しつつ、「これは幻だ。これは幻だ。」と念仏を唱えてみるのもいいかもしれない。
今日は機内で映画を四本見たが[2]、早速念仏を唱えることにしよう。
[1] 日本のグラビアそのものが色々とおかしいと前々から思っているのだけど、それはまた後日。
[2] 実は2013年に見た映画の総数よりも多いかもしれない。
15:10に日本に到着、爆速で入国審査と税関を抜け、15:43の京成本線特急・上野行きに揺られている。現在時刻は16:10だ。何気に、バスか成田エクスプレス意外で成田空港から出るのは初めてだ。
窓を流れる景色を見て、「やっぱり日本は丘が多いなあ」とか、「日本の山林ってやっぱり好きだなー」とか思いながら、乗換駅の事を気にしている。特に竹林が好きだと思う。
毎度のことながら、小さな駅の周りにある、細々・ゴミゴミとしたビルの雑踏には生理的嫌悪のようなものを感じる。単純に、幼少期・思春期の日本での時間を、こういう場所で過ごさなかったからだろうか。
それにしても駅の名前が見た事の無いものばかりだ。今一体自分がどこにいるのかも分からない。なぜかふと、「筑波大学行ってみたいなー」と思った。けど方向音痴なので、一人で行ったら絶対に迷うだろう。
田舎っぽい、田んぼや山々の風景を見ていると、幼少期から数年に一度は日本に来ていたせいもあって、やはり懐かしく感じる。けど日本からアメリカに移住したExPatの友人達が、帰国の度に故郷を噛み締めるのとはやっぱり違う。
懐かしくはあるけれど、日本はやっぱり僕の故郷ではないのだなあと、今更ながらに感じる。逆に、サンフランシスコやサンノゼ空港に到着し、280号の高速の景色を見ると、「ああ、帰ってきたなあ」といつも思う。当たり前なのだけど、同時に少しばかり寂しくも思う。