2014-06-04

僕は日本語が下手だ。

会う人には大抵こう断りを入れるようにしているのだが、謙遜でも何でも無い。こう自己防衛しておかないと正直やってられないのだ。

空気が読めないことは当然として、語彙は少ないし、文末のバラエティも乏しい。気さくで繊細な言い回しなども使えない。これらの要素を組み合わせると、文章の構築力が著しく低い人間が出来上がる。自分の頭の中にある考えの「イメージ」を言葉へと変えるのがとにかく苦手なのだ。そして表現力が低いというのは思いのほかつらいのだ。

僕は文章力そのものが低いいわけではない。英語なら人並み以上には出来る自信がある。逆になまじ英語で凝った細かな言い回しが出来るようになったからこそ、日本語を使うのがつらくなってしまったのではないかと思っている。

この過去3年間で本を読み漁り、文章をそれなりに多く書いたため、僕の英語能力は格段に伸びた。同時に日本語能力は緩やかに衰えた。結果、二つの言語の能力差がずいぶん開いてしまった。そこで初めて日本語を使うのには大きな苦痛が伴うようになってしまった。それまでは漠然と自分の日本語の下手さを認識していたのだが、今では自分の日本語の下手さ加減に絶望するようにまでなってしまった。

表現力が無いのいうのは、言い換えれば自分を言い表せないという事だ。人は誰しもが理解されたいものであり、自身の気持ちや信念を打ち明け、共感を得たいものである 。

人と人とのつながりを築く第一歩として、自分の頭の中にあるものを言葉にして伝えなければならない。しかしこの第一歩に問題が生じるのならば、真に他の誰かと分かち合う事など夢のまた夢である。

僕の英語力の上達というのは、言語から独立した「考えの豊かさ」と上達でもある。この上限と日本語での表現力の差は日々開く一方である。

僕はスペイン語も少しできるのだが、このような苦悩はスペイン語では感じない。英語と日本語の能力が比較的近かった時もここまで苦しく感じることは無かった。外国語の能力が母国語に比べてある程度出来るようになって初めてこのフラストレーションを味わうのではないかと思う。

このギャップが大きすぎても小さすぎても苦しみはあまり感じないが、ある一定のレンジの中に収まるようになると、自分の表現力の無さに四苦八苦するようになるのではないか。

最近ではあまりにも自分の日本語が嫌なために、今まで日本語でしか話したことのなかった友人に英語で話す了解を得て、1時間ほど英語で話した。彼とはかれこれ3、4年の付き合いだが、この1時間の会話の方がそれまでの全ての時間よりも僕のことを知ることができたとの事だった。

僕はこの時確信を得たのだ。日本語を使っている限りは人と真に分かち合えることは無いのだと。

きっとこのまま言葉も、今かろうじてある関係も、月日と共に次第に薄れていくのだと思う。そこに哀しみしか残らないのだとしても。